2014年11月30日日曜日

今月のイチオシ(2014年11月)


フラグタイム 2 (少年チャンピオン・コミックス・タップ!)

「私の方が先だもん」
時が止まった二人だけの空間で通わせる想い



ちぐはぐ少女のダイアログ (1) (電撃コミックスNEXT)

双子姉妹百合



ひとりぼっちの○○生活 (1) (電撃コミックスNEXT)

「なこちゃんのこと好きになったみたい」
ぼっち少女の友達作り

レビュー再開のお知らせ

レビュー再開を決定しました


批判的なレビューは需要がないという理由からレビュー掲載中止を決定いたしましたが、中止決定のお知らせ掲載後に継続の要望が寄せられたため、中止の決定を撤回し、掲載再開を致します。

稚拙な文章しか書けませんが今後もよろしくお願い致します。



明示していませんでしたが、最近のレビュー掲載の基準を明示します
①原則1巻と最終巻についてレビュー掲載を行います。ただし、特筆すべき事項がない場合には掲載を行いません。また、1巻・最終巻以外の巻に関しては、何らかの特筆すべき事項が存在する場合にはレビュー掲載を行います。

②百合姫コミックスおよびアンソロジーに関しては原則レビュー掲載しません。ただし、何らかの特筆すべき事項が存在する場合には掲載を行います。


①に関してはあともすの都合により時間がないことがひとつの理由です。また、もう一つの理由として、1巻以降内容が変化する作品が少ないことが理由です。

②に関しては百合姫コミックス・アンソロジーは基本短篇集であり、独立した作品集なのでレビューを書くことが大変であるためです。百合姫コミックスに関しては、作風が極めて安定しており、「百合姫的」内容というものが確立してしまっているため、公式ページ等に掲載されている作品紹介から内容がほぼ把握できてしまうことが理由です。加えて、百合姫コミックスが百合ではない可能性は皆無(あったら問題ですが)ということも理由の一つです。


今後この基準に基づいてレビュー掲載を行います。よろしくお願い致します。

2014年11月27日木曜日

サンタクロース•オフ! (1) (まんがタイムKRコミックス)



オススメ度:★☆☆☆

サンタクロースの役割と果たす妖精の女の子たちの話。

妖精の雪日はある日人間の女の子睦月に触られてしまったために妖精としての能力を失ってしまう。雪日は睦月とともに暮らしながら失った能力を取り戻そうとする・・・という内容


1巻時点ではあまり百合度は高くない感じ

2巻以降様子見といった感じです

ユリイカ 2014年12月号 特集=百合文化の現在





文芸誌ユリイカの百合特集。


百合作家の方々へのインタビューが多く、それはそれで面白いのですが、一方、個人的に面白みを感じたのは研究者の方々の評論でした。吉屋信子をはじめとする大正女性文学と百合のつながり、少女マンガと百合のつながり、フェミニズム・ジェンダー・クィアスタディーズとの関係性など、非常に多様な見地から百合について語られており、とても楽しませていただきました。以下、ユリイカを読んで感じた、自身の感想を述べさせていただきます。しかし、あともす個人は文学について全くの無知であり、ユリイカで書かれている方々の文章と比べると読む価値など一切無いと言えるほどでしょう。その点を承知の上お読みいただけると幸いです。

全体の感想としましては、先に述べたとおり文学、文化研究やフェミニズム・ジェンダー・クィアスタディーズなどといった広い見地から百合が述べられており、「百合とは何か?」という根源的問いを持つ百合好きの方々が、百合の姿の尾っぽをつかむには非常に最適かと思われます。しかし、一方で、吉屋信子をはじめとする大正女性文学と百合とのつながり、もしくは、少女マンガと百合とのつながりが、はなから存在するものとして無批判に語られているような印象を受けました。これに関しては、大正女性文学と少女マンガのつながりや、少女マンガとその他のマンガのつながりについての研究は既に十分な蓄積があり、学識のある方々にとっては自明のことなのかもしれません。しかし、自分のような無知な人間にとっては少々飛躍を感じることがありました。加えて、扱われている作品が全般的にやや古いようにも感じました。確かに、百合の歴史を解明する上では「昔」の作品に言及する必要があるのは確かですが、しかし、「今」の作品とどのような関係があるのか、という点がややわかりづらいように思えました。先に述べたことと重なることだとは思いますが、「百合文化の現在」というタイトルにたいして百合文化の「過去」と「現在」の関係が不明確であり、そこに飛躍を感じることがありました。
ただし、上で了承してもらったとおり、あともす自身無知であり、これらのことはもはや自明で語る必要もないようなことなのかもしれません。

以上が、全体の感想でありまして、以下、各評論の感想について書かせていただきます。なお、個別の感想において敬称は略させていただきます。各先生方には深くお詫び申し上げます。







◆川崎賢子「半壊のシンボル 吉屋信子と百合的欲望の共同体」
文芸・演劇評論家 日本近代文学研究者 日本映画大学教授 フェミニズムと昭和文学の関わりを主題

吉屋信子の「白百合」における「純潔」から「百合」を語っている。「百合」は「純潔」の象徴である。しかし、「純潔」とはキリスト教的観念であり、異性愛主義の文脈の下でのみ価値がある。同性を思慕する女たちと「私」とを表象しようとすれば綻びが生じ、そこから名指されていない欲望が生じる。これがタイトルにある「半壊のシンボル」のことであろう。この名指されていない他者への欲望が読者を惹きつけるものであるする評論。

百合においては、一般には異性愛主義的文脈で用いられる語彙が換骨奪胎的な用いられ方をすることが多々ある。(ex.「イケメン」な女の子・・・百合好き以外に対して発言するとかなり怪訝な顔をされる表現の一つ。といっても近年はかなり一般的に用いられるようになった) そのような百合の現状を正確に捉えている評論なのではないか。
一方で、百合作品の読者が腐女子であることを前提としているように読める文章であった。百合姫がもともとコミックゼロサムという腐女子向け雑誌の増刊号であったことを考えると元来そうであった可能性もあるのかもしれないが、実態としてどうなのかという疑問が残った。



◆木村郎子「「突然の百合」という視座 多和田葉子、吉屋信子、宮本百合子をとおして」
日本文学研究者、津田塾大学国際関係学科教授

学生の「突然の百合」という発言から始まる評論。性的アイデンティティは統一されてなければならないという規範が社会的に存在するが、しかし、実際の人間の性的指向と性幻想は一致しない場合があることを説明しつつ、「百合」という視座はそのような性的指向と性幻想の不一致を捉え、同時に、上で述べたような社会的規範を解体するものであると「百合」を位置づけている。

人間のアイデンティティは統一的ではなくむしろ分裂症的であることを「百合」という言葉が捉えている、という評価は非常に面白い。レズビアンと公言されていない登場人物たちの関係を描いた百合作品が多い現実を適切に把握できている評論ではないかと思われる。
しかし、オタク産業においては、消費者の多くが男性であり、作品もそれに合わせ、男性優位の異性愛主義的内容のものが多い。そのように異性愛主義の風潮が強いように思われるオタク産業の下、百合作品においてレズビアンであるとか、女性同性愛関係であることを明言しないことは、異性愛主義規範によるチェックを回避すること、もしくはその規範に従うことそのものなのではないかとも考えられる。近年の百合作品に見られる、「一般」男性消費者の嗜好に合わせる傾向に対して妥当する内容なのか疑問が残る。




◆嵯峨景子「吉屋信子から氷室冴子へ 少女小説と「誇り」の系譜」
東京大学大学院学際情報学府 文化・人間情報学コース博士課程 大正・乙女デザイン研究所 主任研究員 歴史社会学 文学史研究

少女小説の精神と百合の関わりを論じている。少女小説の精神とは、少女同士の交わりを描きながら、何より少女たち自身の矜持を表現し、読者でもあるそうした少女たちの内面を肯定し後押しすること。そして作家自身にとってはそのような物語を紡ぎ続けることに矜持を持つことであったと述べている。そして、百合作品とはそのような少女小説の精神を引き継ぐものであるとした評論。

少女小説の歴史の中に百合を位置づけ、百合を少女小説の精神を引き継ぐものとして評価するという非常に面白い内容であった。百合作品において学校が舞台であることが多い現状を適切に捉えることができる評論であると思われる。
一方で、近年百合好きの間で「学生百合ばっかりでつまらない」という意見もしばしば聞こえる。百合読者の精神の変化が起きているのではないか、起きているとするならば、少女小説の精神からどう変化しているのかが気になるところである。




◆中里一「解放区としての百合」
作家

 「クラスの中で誰が好き?」という問から百合について論じている。この問は誰に人気が集まっているかを知って格付けし、どんな人々から人気があるのかを知ってグループを作って棲み分け、グループ同士がルールを守って共生する<格付け><棲み分け><共生>のゲームであり、あるべき秩序を念頭においたゲームであると説明されている。そして百合・BLはこのゲームからの解放区であると述べられている。
Ex)BL:「レイプされてハッピーエンド」
百合:「ストーカー娘」
これらの例は<格付け><棲み分け><共生>のゲームの中では禁じられているものであり、解放区としての魅力を示すものだとされている。


「ストーカー娘」が百合だからこそ許される、というのは、確かに、もし異性間であれば「気持ち悪い」となるはずであり、非常に面白い評論であった。現状百合作品においてはストーカーじみた娘が登場することは多い。また最近ではWIXOSSがこの「ストーカー娘」問題に取り組んでいるというように考えることができ、現状に適切な分析なのではないだろうか。
しかし、疑問としては「BL・百合は、<男性同性愛者>・<女性同性愛者>でない立場に依拠しており、この立場を前提にして読む・書くがゆえに面白い」とされているが、この部分の意味が「<男性同性愛者>・<女性同性愛者>に限らず、全ての<ジェンダー>・<セクシュアリティ>の者に向けて書かれている」という意味なのか「<男性異性愛者>・<女性異性愛者>向けに書かれている」という意味なのかでこの評論の評価は変わってくるのではないかと思われる。もし後者なのであれば、<異性愛者>たちが<同性愛>に対し、<異性愛的規範からの逸脱>という価値づけを行い消費しているに過ぎない<異性愛至上主義>の肯定ととることすら可能ではないかという疑問を抱いた。



◆堀江有里「女たちの関係性を表象すること レズビアンへのまなざしをめぐるノート」
立命館大学大学院先端総合学術研究科助手・非常勤講師 社会学・レズビアンスタディーズ

異性愛男性が百合について意気揚々と語っている姿に恐怖を感じた体験から始まる評論。
その恐怖の原因として「レズビアン」に対して過剰な性的な意味付けを行う異性愛男性の視線を挙げている。そこから菅野優香の映画における二極化を取り上げ、「視覚的暗示・共示」と「過剰な視覚性」について説明し、「レズビアン」に対する異性愛男性の視線の影響を述べている。前者においては「女性の女性に対する欲望は、友情など別の形へと転位され、隠蔽され、抑圧されるのが常である」、後者においては「性的な行為によってのみその欲望が表象され、性器的な身体接触によって定義されるレズビアニズム」とされており、つまり前者では「レズビアン」は不可視のままに留め置かれ、後者では過剰に性的な存在として描かれることを示している。このように「百合」が広まることで生じる、「レズビアン」に対し異性愛男性が与える悪影響を述べる一方で、「百合」は女性同士の親密な関係性に焦点を当てることで、男性不在の関係性を親密圏のなかで育んでいくことができるのではないかと肯定的な評価も与えている。つまり、「百合」が、女性が性的主体を回復する可能性という男性中心主義の社会のなかでの大きな可能性を持っているという評価を行っている。

百合作品に多く見られ、その多さ、不自然さから緋弾のアリアAAでネタにされた「どうみても付き合っていても仲の良いお友達ということにしておく」現象の原因、および、百合を一石二鳥のオカズ程度にしか思わない異性愛男性に対する、もしくはそのような男性を対象にしているかのような作品に対する嫌悪感の原因を明確にした評論。本書での木村郎子の立場をとれば、おそらく、百合作品においてキャラクター同士が「友達」と定義されていることは、それは人間の一時的な、事実としての欲求を描いたものとして評価されうるのかもしれない。しかし、むしろ百合作品の現状としては本評論の方が適切であるように思われる。一番の例としては桜Trickアニメ化の際のOPEDムービーの過剰な性的演出があげられるだろう。その他にも、百合作品とされているアニメのDVDBlu-ray発売時の特典にしばしば、性的な絵柄が描かれた抱きまくらが付属することも例としてあげられるだろう。これらは、レズビアンを過剰に性的なものとする異性愛男性の視線の影響を明確にあらわらす事例であると考えられる。また、どうみても恋愛関係にある二人を「友達」だとし続ける、漫画で用いられるギャグになってしまうほど不自然な主張を多くの百合作品が行う現実はおそらく映画における「視覚的暗示・共示」と同様の原理に基づくものだろう。このように、本評論は百合の現状を極めて適切に捉えている内容であると思われる。
また、本評論最後で百合が女性の性的主体回復可能性が示されている。このことは、百合が現在岐路に立たされているということを示すものだろう。それは、男性中心的異性愛主義を払拭する一大ジャンルになる可能性と、一方でそれに失敗し、異性愛男性を満足させるための低俗な存在に堕ちてしまう可能性への分かれ道である。このように百合の現在に対し多くの示唆を与える非常に興味深い評論であった。



◆藤本由香里「「百合」の来し方 「女どうしの愛」をマンガはどう描いてきたか?」
マンガ研究 明治大学国際日本学部教授

「女同士の愛」を描いた作品の歴史的変化から「百合」について述べた評論である。「女同士の愛」を描いた作品は、もともと暗い悲劇的な終わりをする作品が多かったが、しかし80年代後半から、「機会均等法」などの影響で女性社会進出が進み、女性が男性と一緒になることが至上命題ではなくなったと説明している。そして、ここから明るいレズビアン作品の出現し、「女性愛」=「男の愛を超える女性同士の愛」を描くようになったと述べている。つまり、女性の社会進出とそれに伴う意識の変化が作品の内容を変えたということが指摘されている。

女性の社会進出とそれに伴う意識の変化が漫画の内容に大きな変化を及ぼしたことを示す評論。百合作品が流行ることで人々がゲイ・フレンドリーになるという意識変化作品の変化とは逆方向の影響の可能性も示唆しており、社会と作品の相互関係を示している点が面白い。百合作品が拡大することで社会が同性愛寛容の方向に進んでいくという明るい未来を感じさせてくれる。
堀江評論では、異性愛男性視線から百合が侵食を受ける可能性が指摘されたが。当藤本評論を踏まえると、それを防ぐ方法の一つとして、女性が更なる経済進出を行い、オタク産業において一大消費者としての地位を築くことが考えられるのではないか。百合現状である異性愛男性の視線による侵食はオタク産業において異性愛男性が主たる地位を占めていることがひとつの原因であろう。女性がオタク産業内での地位を拡大すれば百合への侵食歯止め足りうるのではないかという可能性を示唆しているようにも思える評論であり非常に興味深いものであった。
一方で、女性の社会進出以前の「女どうしの愛」像からの変化が描かれているものの、2007年以降の百合ブームにおいて「女どうしの愛」像がどのように変化したのかが描かれていない。それは、全く変化しなかったということなのか。それともそうでないのか、そうでなかったとしたら、どう変化したのかが疑問として残った。




◆溝口彰子「同じ物語なのになぜレズビアンが疎外感を味わうのか 『LOVE MY LIFE』映画版の謎を分析する」
多摩美術大学美術学部芸術学科非常勤講師 ビジュアル&カルチュラル・スタディーズ

百合マンガ『LOVE MY LIFE』の映画版に対する落胆という経験から「百合」について論じている評論。百合マンガ『LOVE MY LIFE』の映画版ではレズビアンであると公言するシーンをカットし、更に極めて性的な演出を行うといった変更が原作から加えられた。これらは異性愛男性の視点であり、この異性愛男性の視点によって、レズビアンたちを排除するような作品へと変貌してしまったと説明している。そして、次にアニメ化された『青い花』について述べており、『青い花』がもしドラマ化するということになった際に同様のことが起きないかという危惧を示している。

堀江評論で示されていることの具体例にあたるものであろう。アニメ化でこの評論で述べられていることと同様のことが生じる事例が百合の現状では多いことを考えると非常に示唆あるものであると思われる。




エリカ・フリードマン 訳=椎名ゆかり「百合境界なきジャンル」
ALC Publishing創立者

百合とは境界なきジャンルであり年齢・性別を問わず楽しめるジャンルという肯定的評価を与えている評論。「百合は百合を楽しむ人のためにある」というフレーズが印象的である。

百合の越境的性質を述べた評論である。BLが腐女子という同質性の高いファン層を持つ一方、百合の読者は多岐に渡るという現状を捉えていると評価できるであろう。
 しかし、その多様な読者間のパワーは必ずしも対等ではない。本書でも度々指摘されているように、男性中心的異性愛主義が持つ力は強く、百合対する影響力も大きい。フリードマンは百合を楽しむものの多様性が、未来において、そのまま開花し、多様な百合が生まれるという楽観的な立場を取る。だが、百合の現状は、この男性中心的異性愛主義の侵食によって多様性がむしろ減少しているようにみえる。百合の未来を考える上で、この異性愛主義の力を抜きに考えることはできないのではないかという疑問を抱いた。



ジェームズ・ウェルカー「倉田嘘『百合男子』に表された百合ファンダムの姿についての一考察」
神奈川外国語学部国際文化交流学科准教授 文化研究

 『百合男子』という作品は百合ファンの社会的アイデンティティについて扱った作品であり、百合の男性ファンに百合ファンであることに対してプライドを与えてくれるものであると肯定的な評価を与えている評論であり、非常に興味深い。

しかし、いくつか疑問を感じる。第一点は『百合男子』というタイトルに関して。「男子」というワードは作り手が意図してもしていなくても、人間の性は「男」と「女」の2つであるというメッセージを発する。『百合男子』というタイトルは「男性ジェンダー」を受け入れている読者にとっては確かに百合ファンとしての自認を与えてくれる良作足りえるだろうが、しかし、そうでない読者にとっては、むしろ、排除されているという感覚を与える危険性があるのではないか?
第二点は『百合男子』の描くものは、いわゆるイヴ・K・セジヴィックがいうところの「ホモソーシャル」ではないかという疑問である。「ホモソーシャル」とは異性愛男性の友情・同胞愛によって支えられた集団を指し、それは男性同士が女性を所有の対象とし、男性同士同一化するという関係である。この「女性」の部分を「百合」「レズビアン」に置き換えたものが『百合男子』で描かれているものなのではないかと考えられる。本評論では『百合男子』にはホモフォビックな発言もでてこないし、また、主人公啓介には異性愛的性欲も見られないと書かれているため、この「ホモソーシャル」にはあたらないという反論もあるだろう。また、近年の『百合男子』には百合好き女性キャラも出てきているので一概にこの通りであるとは言えないかもしれない。しかし、このような読みの可能性は百合に対する男性中心的異性愛主義の影響を考える上では重要なのではと思われる。




玉木サナ「いろんな百合が咲けばいい、わたしは血の色の百合が見たい」
ライター

 百合の曖昧さの曖昧さについて論じた評論。百合の曖昧さとは、百合の多様性を確保し、百合の発展の要因ともなった要素であると肯定的にとらえている。「『ゆるゆり』みたいなのだけが百合だし、それ以外のものはいらない」という言説を批判している。

いわゆる百合界に残るトラウマ「百合レズ論争」について扱ったものか。百合とは何かについて明確にされなかったからこそ百合が発展したと肯定的評価を与える評論である。
「百合とはなにか」という問は本評論でも書かれているが、百合好きの間ではタブーとされてきた問である。しかし、「百合とはなにか」という問そのものは悪いものではないと自身は考えている。「百合レズ論争」はその区別の基準に極めて差別的な基準が用いられたことが誤りであったのであって、「百合とはなにか」を明確にすることそのものは誤りではなかったと思われる。「百合」がその独自の名称を持つ他のジャンルから独立したジャンルなのであるならば、他のジャンルと区別されうる何らか固有の要素を持っているはずである。このことを前提にするならば、「百合とはなにか」を問うことそのものは何ら誤りではない。むしろ、「百合とはなにか」を明確にしてこなかったせいで百合好き間の新たな対立さえ生み出してきたように思える。この「百合はなにか」と問うことの意味について真剣に考慮することが必要なのではないだろうか?




日高利泰「マンガの世界を構成する塵のような何か。 百合はジャンルの境界を描きかえるのか」
京都大学大学院人間・環境学研究科 マンガ研究

百合好き当事者ではない、外部の視点から「百合である」/「百合ではない」の境界線を探ろうとした非常に面白い評論である。外部の冷静な視点でみるからこそみえてくるものがあることを教えてくれる。本書では「百合」と「少女マンガ」を関連性のあるものとして論じる評論が多いが、そのことに対して疑問を投げかけている。百合好き内部の実感と合うのはむしろこちらのほうではないかと思える。「百合」の「上限」「下限」という発想も百合好きの実感にマッチする。さらに、堀江評論や藤本評論などに見られるように、「百合」が女性・同性愛者の地位向上につながるなどという立場にも疑問を投げかけている。それはヘテロ・BL・百合に関わらず人間関係を全て「性愛」関係に回収する在り方が共通しており、どれも「恋愛至上主義」的ということだろう。
「なぜ百合なのか?」「なぜ女性同士であるべきなのか?」という問はしばしば百合好きでないものから百合好きに対して投げかけられる質問であり、答えを出すことが極めて難しい質問である。「百合とはなにか?」という問について考えるときに、非常に重要な問題を提示している興味深い評論である。




石田美紀「戦闘少女の叫び、そして百合」
新潟大学 准教授 映画文化論

戦闘少女とアニメにおける百合の関係性についての評論。戦闘少女がアニメにおける百合の元となっているという指摘は非常に興味深い。確かに、魔法少女ものを代表として、ガルパンやスト魔女など戦闘を行う少女のアニメは人気を博している。加えて、戦闘ではないものの部活動における競技という形で戦う少女たちの作品もまた多い。そのような百合の現状を説明している面白い評論であるといえる。しかし、一方で、4コマ系の百合に関しては当てはまらないのではという疑問を抱く。いわゆる日常系といわれる作品群もまた、百合の現在において重要な位置を占めていることを考えれば、これらについても考慮にいれる必要があるのではないだろうか。加えて、述べられていることは、アニメにおける戦闘少女を表現する技法についてであって、百合の内容についてではないのではないかという疑問である。表現技法の確立により、百合アニメが流行る下地ができていたという点では正しいと思われる。しかし、表現すべき百合の内容がどう形成されてきたかについては触れられていないし、また、戦闘少女アニメの中で築き上げられた表現技法が百合好きたちの間でどう捉えられているか、つまり、実は肯定的に捉えられてはいないのでは?さらに言い換えれば、百合の内容と必ずしもマッチしない可能性があるのではないかという疑問を抱いた。



上田麻由子「内なる少女を救い出すこと 『シムーン』の孤独と連帯」
上智大講師 アメリカ文学/アニメ批評

『シムーン』から百合と少女マンガの共通点を導き出す評論。二十四年組と呼ばれる少女マンガの共通のテーマは「人間が大人になる瞬間」がであり、シムーンもまたこれを描いているとしている。そして、百合とは過渡期としての「少女」時代の美しさ、苦しさを描くものであると捉えている。

確かに百合作品のほとんどは少女たちを描いたものであることを考えると百合の現状を捉えることができているといえる。しかし、一方で大学生百合・社会人百合というジャンルが、主流ではないものの存在し、また強く百合好きの間で求められることから、百合の全体を把握しているとは言い難いのではないかという疑問を持った。




須川亜紀子「あなたの痛みは私そのもの 共闘する<魔法>少女たちのやすらぎ」
横浜国立大学教育人間科学部准教授 文化研究

<魔法>少女の物語から「百合」について論じた評論。<魔法>少女の物語は男性中心主義的社会における異性愛規範を転覆させるものであり、少女同士の共感と絆を描き、異性愛ロマンスではなく女性同士の友愛というオルタナティブを与える点が特徴であるとしている。そして、この点がC.ギリガンのケアの論理と類似していることを指摘している。すなわち、女性の共感とケアという特質が魔法少女アニメで描かれているのではないかと主張している。

いわゆるオカズ的な百合に対して違和感を感じることが多い。百合が異性愛主義からの逸脱というオルタナティブを与えるもの、男性不在の女性同士の共感と絆を描くものであるとすると、この違和感について説明できるのではないか。このようにギリガンのケアの論理を用いて百合を把握するのは非常に面白い視座である。ただし、本評論で語られているのはあくまで<魔法>少女アニメについてだけなので、即座に百合作品全体へと拡大して適用してしまうのは飛躍になってしまうかもしれない。しかし、それでも、百合作品の定義をする際に非常に有用な視座を提供してくれる評論ではないだろうか。





私見

 最後にあともすの私見を述べさせていただきます。あともすが百合の現在について感じること、それは「百合は危機に立たされているのではないか?」ということです。この考えを明確に持ったのは桜trickのアニメ化の際でした。桜trickは百合好きたちの間で非常に人気であり、かくいう自分もアニメ化に対して大きな期待を抱いていました。しかし、アニメ化された際、自分が見たものは大げさに胸を揺らすOPと、ヒロイン二人が性的なコスチュームを着ているだけのEDでした。その時受けた衝撃は、おそらく本書においては堀江先生が語られている「異性愛男性の視線」の恐怖と同種のものでしょう。桜trickアニメ化後も、百合作品とされている作品がアニメ化する度、この感情を抱いてきました。例をあげれば、DVD特典にほぼ必ずと言っていいほど性的な絵柄が描かれた抱き枕カバーが付属することがあげられます。このような百合作品のアニメ化の在り方に対して自分は怒りの感情を抱いていました。加えて、怒りを感じる対象がもうひとつありました。それは、ネット上でしばしば見られる「百合作品は売れない」という言説です。その際自分が考えることは、「百合作品として『適切』な売り方をすれば、百合好きが買ってくれるはずだ。売れないはずはない」ということでした。そして、「『適切な』売り方をすれば、百合作品が売れ、『理想的な』百合作品が増加・拡大していく」とも考えていました。しかし、今ではそのように考えてはいません。
考え方が変わったのは今年の夏、とある団体の合宿に参加した時です。その合宿の宿で同室だった方――音楽好きの方でしたが――が、音楽について語ってくれました。その際印象的だったのは「音楽にも『音楽とは何か』という論争がある」ということです。最近では、DTMは音楽かどうかという論争があるそうです。外部の人間からすれば、そしてDTMを実際に行っている方々からすれば、なんと狭量な、と思われるかもしれませんが。確かに、人が演奏しているわけでもなく、楽器を用いているわけでもないとなれば『音楽』のアイデンティティクライシスであるといえるでしょう。『音楽』の本質を問う上ではかなり重要な論争といえるのではないでしょうか?自分はたずねました、「論争の結果はどうなったのか?」と。答えは「ことごとく商業主義に敗北してきた」でした。そこで、はっとしたのです。今まで「『売れる』ことは『理想』に近づくことだ」と思っていたのです。しかし、現実はそうではなかったのです。商業主義のステージでは『理想』なんて考慮されないのです、『売れさえすればよい』のです。では、商業主義に基づき最も合理的な行動を出版社がとったとしたら、どのような作品が出版されるのでしょう?答えはおそらく、現在の、極めて男性中心的異性愛主義的な作品が跋扈するオタク産業の有り様がその解答なのでしょう。社会の、男性主義、異性愛主義の強さを考慮すればそう考えざるを得ないと。そして、その予兆が、桜trickのアニメ化に際して生じたことなのではないかと。自分はこのようにして、「『売れる』百合を目指すことが本当に望ましいことなのか?」という疑問を抱くようになりました。
 百合好きの間では、「ゆるゆり」の頃が最たるものでしたが、百合が売れることに対して、諸手を上げ、喝采をもって迎える風潮があるように思われます。そして、上で述べたような異性愛主義の侵食に関しては「出版社としても活動資金が必要だから仕方がない」と切り捨てられ、考慮されることはほぼなかったように感じられます。それどころか、百合の拡大を批判する者は「非国民」ならぬ「非百合民」であるかのような排斥が行われてきたように思われます。確かに、百合作品は増えました。当ブログのリストに載っている極めて限定的な範囲だけでも毎月30以上の作品が出版され、預金通帳の数字に頭を悩まされるという贅沢な時代になったことは確かです。しかし、百合の拡大は本当に良い影響ばかりをもたらしたのでしょうか?自分は疑問に思います。中里先生は先生自身のサイトで百合は量が増える時代がおとずれ、いずれ質を求める時代が来ると述べられています。本当にそうなのでしょうか?質を重視する方向に転換する契機となるのは何なのか、それは明言されていません。数が増えても読者の財布は有限なのだから、必然的に選択せざるを得なくなると言われればそうなのかもしれませんが。だからといって、その選択が「望ましい百合」を導き出すかと言われれば、それもまた確証がありません。この点において、百合はいわば宙ぶらりんの状態であり、それは、「『百合』が異性愛男性のオカズに成り下がる」か「『百合』が百合としての崇高さを維持する」かの分かれ道、つまり「『百合』の危機」にあるのではないかと思います。


 では、なぜこのような危機的状況になってしまったのでしょうか?かつて「レズもの」と呼ばれるポルノが現れたように、『百合』にもそれがつきものなのでしょうか?本書でも、そして、また自分もしばしば述べているように男性中心的異性愛主義の強力さが要因であることがひとつ挙げられるのではないでしょうか。しかし、それだけなのでしょうか?出版社が悪い?それもあるかもしれません。百合好きのニーズからズレたどうにもかゆいところに手が届かないもどかしさを感じる作品が多いことを見るに、出版社が百合好きのニーズを的確に把握できてないこともひとつの要因であるでしょう。ですが、このように外部ばかりに原因があるのでしょうか?自分は百合好きたち自身にもその責任の一端があるのではないかと考えています。その責任とは、「百合とは何か?」を問うことをタブー視するような百合好きたちの間に存在する風潮を生み出したことです。
「百合とは何か?」という問を発する者は狭量な人間というレッテルを貼られ排斥されてきました。もしくは、この問を発したとしてもそれに対して、「百合と思えば全部百合」というような寛容な答えを発することが英雄視される風潮、またはそのような答えをすることを暗黙のうちに強制する圧力があるように感じてきました。このような風潮の原因はおそらくかつての「百合レズ論争」にあるものと思われます。「百合」と「レズ」は違うとするその論争が誤りであったのは、「百合とは何か?」の基準に差別的な基準を用いたことであって、「百合とは何か?」を問うことそのものではなかったと考えています。なぜなら、「百合」が「百合」という名称を持つ、他のジャンルから独立した一つのジャンルであること――つまり、例えば、男性向けの下位カテゴリではない――ことを考えると、他のジャンルとの境界を形成する、何らかの「百合」に固有の要素があるはずといえるからです。しかし、この「百合」固有の要素は、「百合レズ論争」のトラウマが原因となって、考慮されることはなかったのです。その結果として、現在のような男性中心的異性愛主義が百合を蝕む事態を引き起こしたのではないでしょうか?
堀江先生や溝口先生が指摘したような、「百合」が異性愛男性のオカズへと成り下がるバッドエンドを前にして、重要なのは「百合とは何か?」を今一度問いなおしてみることではないでしょうか?しかし、この考えには問題点が多数あります。一つには、「あるべき『百合』」を定めることが望ましいことなのかという問題です。フリードマン先生や玉木先生が指摘している通り、百合の発展には百合の曖昧さが重要であったという反論があるでしょう。また、「百合」とは事実として今存在している「百合」こそが「百合」であって、歴史上のある一時点の「百合」を持ちだして、これこそが「百合」であり、そうあるべきだ、と言っているに過ぎないという反論もなされるでしょう。「百合」がオカズで何が悪いの?と言われれば、確かに、そうあるべきではないということを正当化できる根拠などなにもなく、自分の狭量な思想信条の押し付けであるとも言えます。加えて二つ目には、「百合とは何か?」を問いなおしたところで「望ましい百合」が出てくる保証があるかと言われれば、ありません。単に不必要な諍いを引き起こすだけかもしれません。自分にはこれらの反論に対する有効な反論はできません。しかし、現在の百合好きたちの批判精神の著しい欠如は不気味なものがあります。物事が進みゆくままの流れに乗ることが絶対正しいとでもいうかのような雰囲気。その流れは偶然の産物であり、正しい方向へ向かっているかどうか怪しいのに。自分が想定するバッドエンドとは、売れるからという理由によって「百合」=一石二鳥のオカズ的な作品が量産され、そしてそのような「百合」概念が世間に広まり、定着してしまう結末です。これは杞憂かもしれません。しかし、その影は「百合」の世界にちらついているように思えてならないのです。この結末はどのようにして回避できるのか?出版社の努力?売れれば良いという商業主義のステージに立つ会社に期待できるのでしょうか?作家先生方の努力?最近では天野先生の「此花亭奇譚」のエピソードが有名ですが、必ずしも天野先生のような立派な方たちが全てとはいえないでしょう。では、誰がその結末を止められるのか?それは、百合好きたち自身が、「百合」とはそのようなものではないと否定することによってのみ可能なのではないでしょうか?また、「百合」が増えれば、質の良い「百合」も増えるという言説もあります。先に述べたように中里先生は量から質へと転換する時代が来ると予言しています。しかし、そもそも「百合」の質は「百合とは何か?」ということを不明確にしたまま測れるのでしょうか?何をもって「百合」として良いと言えるのでしょうか?「百合と思えば全て百合」という主張が蔓延する百合の現在は、ものさしを持たずにスケールを測ろうとしているようなものでしょう。量から質へと転換するためには、「百合とは何か?」という問に対してひとつの答えが与えられ、「百合」の質を測るためのものさしを百合好きたちが得ていることが必要なのではないかと思います。ただし、注意していただきたいのは、自分は唯一絶対の、真理としての答えを出すべきであるとは言っていないということです。フリードマン先生や玉木先生がいうように、「百合」の曖昧さこそが「百合」の魅力であり、「百合とは何か?」を明確にすることは「百合」の硬直化をもたらすのではないかという反論が考えられます。しかし、自分は「百合とは何か?」という問に対して一度出した答えが永久に不変であるべきとは考えてはいません。そのような永久不変の真理は神にのみたどり着けるものです。人間がたどり着けるのは、より真理に近い答えであって、真理そのものではありません。ゆえに、人間が出す答えは常に不完全であり、それゆえ、常に反証が可能であり、また、他人による反証を妨げないようにすべきなのです。つまり、「百合とは何か?」という問に与えられる答えは常に暫定的なものであり、常に問い直される必要があるものなのです。大切なのは、この「問い直し続ける」ということです。この問にひとつの答えが出たからといって、それに反する他の説を排除すべきではなく、それを聞き入れ、出した答えが本当に正しいのか常に問いなおす必要があるのです。このように、今の「百合」が「正しい」のかどうか常に問い続ける批判精神を身につけることが、百合の現在において重要なことなのではないでしょうか。


 以上のあともすの百合の現在についての私見を述べさせていただきました。稚拙でかつやたら長い文章で申し訳ございません。まとめますと、「百合」は現在、男性中心的異性愛主義による侵食を受け、危機に立たされていると思われます。その危機の諸原因のうちのひとつには百合好きたちが「百合とは何か?」という問に対して答えを出さない、もしくは答えを出すフリをするだけに留まっていたことがあるのではないかということを指摘しました。そして、「百合」の危機を乗り越えるためには今の「百合」は「正しい」のかどうかを常に問いなおす批判精神が必要であることを述べました。
この文章を読んで不快に思ったかたもいるでしょうし、多くの反論があるでしょう。しかし、それで良いのだと思います。そのようにして、疑う、その姿勢こそが重要だと自分は考えるからです。ユリイカで百合特集が組まれた今、百合好きたちは「百合とは何か?」という問に対する関心を強めているでしょう。そして、今、このときこそ、ユリイカに書かれていることだけではなく、今の百合好き間で広まっている通説に対しても、疑問を抱くときなのです。「百合と思えば全部百合」のような、問に答えているようで実質何も言っていないような言説ではないような答えを求めて、百合好きたちが「百合とは何か?」という問に対する関心を高めていってくれたらなぁ、と望んでいます。