2015年1月5日月曜日

2014年の百合を振り返る放送

視聴して頂いた方誠にありがとうございます!

同時視聴者100人超え、人気ランキング入りという非常に多くの人にご覧いただけたこと心から感謝致します。

ご覧いただけなかった方も録画があるのでそちらでご覧ください。ただし、保存期間が1ヶ月となっておりますので注意してください。

百合色雰囲気 (配信ページ)


また、要望がありましたので、配信で使用したスライドを配布いたします。

http://www1.axfc.net/u/3386425

以上のアドレスからダウンロードができます。

パスワードは、みなさまが大好きなアレをローマ字打ち(4文字)です


今後も何らか面白そうなテーマで配信していきたいと考えております。

何か配信してほしい内容や、もしくは、こういう形式の配信をしてほしいという要望がありましたら、コメントをお願い致します。








以下、配信後半の百合語り、あともすパートの反省点について簡潔に
【反省点】
(1)
「百合」が侵食を受けている、という前提で話を進めましたが、一方で、「百合」が拡大している=「百合」が他のジャンルを侵食している、という視野が欠如していたのでは?


(2)
百合好きが共通した「百合」観を共有しているという前提について

百合好きの実情は全く一枚岩ではなく、むしろかなりの多様性がある、という点からすると、共通の「百合」観を共有しているは考えづらいのではないか


「百合好き」が「百合話」をできることを根拠としてあげたが、本当に「百合好き」たちは互いを共通の「百合」観を持った百合好きとして認め合った上でコミュニケーションしているのか?

 むしろ実際は、相手が「百合好き」を自称しているのを、コミュニケーションを円滑に進めるために、それが事実であると推定しているだけに過ぎないのではないか?
 現実に、「百合好き」と名乗った人が実際にはそうではなかったというトラブルが散見されることから、このような視点のほうが妥当か?


「百合とは何か?」の答えは「百合好き」自身の中にあり、みなに共有されているという点について

 答えが個人の中にあるからこそ、共通の答えは導き出せないのではないか。
 「百合好き」は「百合作品」を読んで「百合」を知るという事実からすれば、むしろ、現実に存在している「百合作品」の中にこそ「百合」があると考えるべきか。
 しかし、「百合作品」から「百合とは何か?」の答えを出すことにもまた多くの問題点があるだろう。
「百合」とは「百合作品」の中にある→「百合作品」とは何か?→「百合作品」とは「百合」について扱った作品である というような循環論法になってしまうことがその一番の例だろう


(3)
「百合作品」の核たる「百合」というモデルについて

 柊ひよりの方の発表にあった「ラッキー作品」の概念を説明できないのではないか?まどマギ・ラブライブ!等、百合好きたちの間でブームになった作品群は必ずしも「百合」を核として据えたわけではないと考えられる。すると、このモデルは妥当しない?そもそも作品の核というモデルそのものが創作において妥当しない可能性も。


(4)
atms自身が「百合とは何か?」の明確な答えを持った上での議論であるため、結論先取りの議論であったことが否めない



 配信を通して、また配信が終わった後に見なおしてみて、自分の話した内容が、「百合」の未来については悲観的であるのにも関わらず、共通の「百合」観を共有した「百合好き」の連帯という点においては妙に楽観的であり、矛盾したような内容であるように思えました。
 無意識のうちに「百合好き」の共同体という幻想を抱いていたようですが、それは実際に幻想に過ぎず、現実には「百合好き」というのは極めて多様であり、細分化された人間たちの集まりです。そこに連帯を見出すことは限りなく困難でしょう。

 また、「百合」という言葉に対する思い入れの違いも大きな要素なのではないかということを感じました。atmsも、配信を共に行っていた柊ひよりも、「百合」に人生をかけてきた人間であり、「百合」という言葉に対して非常に強いこだわりを持っているのです。これに対し、「百合」を単に趣味の一つであり、楽しめれば良いという方々は、「百合とは何か?」なんて問うことになんら意味を見出さないでしょう。その差異は大きいと思います。
 確かに「百合」という言葉を捨て去り、「百合」というジャンルをさらに細分化し、各々、その細分化されたジャンルの中で生きていけば今のようなトラブルは起きず、皆平和に暮らせるでしょう。
 そのような、そもそも「百合」という区分けが間違っているのではないか、分け方として大まかすぎたのではないかという点も今後の問題でしょう。
 このような問題を抱えつつもそれでもなお、「百合」という言葉にこだわることに意味はあるのか、ということは今後の大きな問題だと思います。



【あともす→ひよりへの意見】
・漫画の質→人が育つのを待つしか無い
 
・新規性ある百合本を→新規性を求めた結果であるゆるゆりのもたらした問題点が残る

・「ラッキー作品」は、百合狙ってなかったらあたっちゃった、という作品であったとされ、その代表は まどマギやラブライブ!だとしていた。
 しかし、まどマギやラブライブ!は間違いなく「女の子間の関係性」を主眼に入れていたであろうと推測される。この「女の子間の関係性」を制作側が「百合」として認識していたかどうかはわからないが、百合好きがそれを見れば、明らかに「百合」であったものだろう。
 この観点からすると、まどマギやラブライブ!はその作品としての核に「百合」を持った作品であり、そして当然のごとく「百合好き」たちにうけた。実はラッキーでもなんでもない、必然であったのではという疑問が生じた。



【おまけ】
TL上での反応について

・普通の作品にちょろっと百合要素があるという形の作品が減る危険のある議論では?

 それはあともすのいうところの、核が「百合」ではなく、核の周りに「百合」が含まれているタイプの作品であり、それは、あともすの「百合作品」=「百合」核モデルのもとでは、いわゆる「百合作品」ではなく、あともすの問題意識の外にあります。言い方が悪いかもしれませんが、「『百合作品』ではないからどうでもいい」という感じです。


・各人が「百合」の「核」だと思っているもの、そのものがバラバラなのではないか? 
 本編でも述べたとおり、もしそうとすると、「百合」という単語を用いたコミュニケーションが不可能になるではないかと思います。おそらく、「百合」に関して人々が何らか共通の概念を持たないとすると、そもそも「百合」という一単語のみで、そのバラバラである各人の意味したいものを表現するということはなく、各人の意味したいものに対してさらに最適な別の名称が付けられるのではないでしょうか?と思います

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